いよいよ出品作品の締め切りが近づいてきた。

数日前くらいから、自分の意志とは違うところに筆が動き、線質も変わってきた。

もうすぐ終われるかも。

作品の制作が終われば、押印である。

どの印をどこに押すか、楽しみでもあり、緊張を伴う作業が待っている。

ここに紹介するのは、昨年の出品作品「回心」である。

「回」字、思った以上に筆が割れ、最初は失敗したかと思ったが、だんだんと良く見えてきて、これを出すことになった。

今年の作品は如何に?

 

菊山武士

 

今年も黄砂飛来のニュースをよく耳にする季節となりました。

花粉だけでも大変なのに黄砂までもと本当にゾッとするのですが、東アジア内陸部の砂漠などからやってくる事に少し感心してしまっている自分もいます。

僕が南京に留学していた当時、日本から南京への直行便はまだなく、必ず上海を経由して電車に乗り換えて南京を目指すのが普通であった。当時の中国の電車事情はお世辞にも良いとは言えず、特急の切符の当日購入が難しい時もあり、一度鈍行列車にしか乗れない時があった。上海から南京まで当時の一番早い列車で約3時間、僕がその時ようやく手に入れることができた鈍行列車は7時間くらいかかった記憶がある。ただでさえ留学したばかりで中国語もおぼつかない状態で、中国の人でごった返している硬座(ハードシート)に座り、ただただ緊張するばかり、その時列車の上の方からある視線を感じ、そっと上の方を見てみると、頭上の荷物置き場に寝転がっている人と目があった。その時緊張はピークに達し、その後は放心状態で7時間じっと固まり続けていた。永遠にも思えた7時間にも、終わりがあり、深夜の南京駅でタクシーを捕まえ、大学の寮に着いた頃にはもうヘトヘトであった。自分の部屋に戻り、荷物の整理をしながら、何の気なしに壁に貼ってあった中国地図を見た時、この日一番の恐怖を感じた。中国地図に載っていた上海から南京までの距離はほんの数センチ、その奥にはずっとずっと国土が続いているではないかと。7時間くらいで永遠を感じていては、この国では暮らしていけない。とんでもない国に来てしまったと。

そんな奥の奥の方から飛来してくる黄砂に、感心してしまうことがわかっていただけたでしょうか。

 

菊山武士

松阪市嬉野中川町を流れる中村川の土手に桜がたくさん植えられている所があり、毎年美しい景色でたくさんの人の目を楽しませてくれております。

 

菊山武士

 

 

桜を見に行ったこの日は、入学式の日でもあり、新入生とそのご両親が記念写真を撮られに来ているところに遭遇。

今年は桜の開花が少し遅れた為に、良い入学式になったんだろうなぁと勝手に妄想。新入学生には忘れられない春になったに違いないとこれまた妄想。

 

菊山武士

 

こちらは、三重県津市美杉町八手俣にある君ヶ野ダムの桜です。

僕らが行った日は、月曜日だったので、人出はそれほどでもなかったのですが、土曜・日曜日はすごい賑わいだったとの事を後で知りました。山桜もきれいに咲いておりました。

 

菊山武士

 

今日は、午後から雨が降るとの予報。今日を逃すと今年花見はできないのではないかと思い、両親を誘って、僕の住む三重県津市周辺何ヶ所か桜を見に行ってきました。

行った場所ごとに分けて、見ていただけたらと思います。

雨の中の桜を感じていただけると光栄です。

まずは、津市芸濃町北神山の安濃川の近くです。

 

菊山武士

 

筆はたくさん持っている。創作する作品や臨書するものにあわせ、大・小・長・短、また毛質の柔らかいものから硬いものまで。

また作品に変化が欲しいと思う時に、筆を変えるだけで、大きく様変わりしてくれることがある。

相性の良い筆は、値段ではない。僕の中国留学時代は、まだまだ物価も安く日本円で100円前後の筆がたくさん売っていた。その筆は、今も現役で僕以上にがんばってくれている。

僕は、筆を捨てたことがないので、増えていくばかりだが、不思議とよく手に取ってしまう筆がある。筆によるいろんな思い出があり、この筆はあの作品を書いてくれたのだなとか、この筆ならなんとかしてくれると信じ、本当になんとかしてくれたなとか。

下の画像で紹介する筆の中の一つは、30年前に100円くらいで買った大事な筆です。

 

菊山武士

 

現代最高のピアニストの一人であるマウリツィオ・ポリーニが3月23日に、現代日本の彫刻界を代表する大好きな彫刻家の舟越桂さんが3月29日にお亡くなりになりました。なんとも言えない無力感に苛まれているが、刻々と展覧会の締め切りが近づいてきている。ようやく墨色が決まりかけているが、作品完成はまだまだ先のよう。

スペインの巨匠ビクトル・エリセ監督が31年ぶりに撮った「瞳をとじて」をはやく見に行くことができるよう、今日もがんばって制作を続けます。

 

菊山武士

 

2尺×6尺サイズの初めて使う紙に、大好きな三好達治の詩を書いた。

この土という詩は今までも書いているが、横作品で作品下部に文字を書く構成は初めての試みであり、使用する紙も初めてであることから墨色がうまく出るかと少し緊張していたかもしれない。まだまだ作品として発表できるものではないが、書いていっても良いかと感じるものであった。

そのような日は、ぐっすりと眠ることができる。

 

菊山武士

 

書線に筆の毛の跡が残る作品。

墨にゼラチンを混ぜるというより、ゼラチンの中に墨を入れて制作するという方が合っているかもしれない。ゼラチンの性質上、気温が上がると溶けてしまい、平凡な淡墨の作品になってしまいます。

3月下旬になってもまだまだ寒い日が続いているので、このような墨色の作品の制作はできそうです。

でも、本当は暖かくなって欲しいと思っている今日この頃です。

 

菊山武士

 

 

 

 

草月流の創始者であり、国際的な評価も高い華道家である勅使河原蒼風。その創作活動の範囲は、華道に留まらず、絵画・彫刻・書道にも及んだ日本を代表する藝術家である。

その書は、自由で墨蹟風の重厚なものをすぐに思い起こされるが、僕が手に入れたこの蒼風の手による今で言う修了証書の類いのものの字は、とても強く深い線質で北魏風と言っていい素晴らしく魅力的なものである。

書には、「良い書」と「うまい書」があるが、これは「良い書」であると思う。

 

菊山武士

 

中国には、寿山石(福建省)昌化石(浙江省)青田石(浙江省)巴林石(内蒙古)と言う有名な印材がある。

各々の名石の種類や特質については、また書こうと思いますが、最近というか少し前から注目されているのが、ラオス石である。その名の通り、ラオスでとれる印材で、今まで中国以外でとれる印材(例えば韓国やタイ)は、その色・質的にあまり良いものとはされてこなかった。

この新しく採掘されているラオス石に関しては、その色の多様さや石質の良さから、現代中国の有名篆刻家からの評判も高いと聞いている。

ただラオス石は、中国で採掘された高級印材(寿山石の名石や昌化石の鶏血石など)ともとてもよく似ているようで、コレクター泣かせでもあるとか。

 

菊山武士

 

下の画像は、中国最高級印材の寿山石田黄と昌化鶏血石

今日は、一日中制作ができたのですが、なかなか良いものができず苦悶中です。

最初に少し良さそうなものができ、その後いろいろと頭で考えすぎて、ダメになっていきます。

頭で考えているもの以上の状態にならないと作品が出来てきません。まだまだ時間が必要なようです。

頭と身体がまだ一致していないようです。

 

菊山武士

 

毎年この時期から今年度の展覧会出品作品の制作が始まる。

普段からいろいろと構想(妄想?)はしているが、実際書いてみると全然面白くない。苦悶の道のりが今年も始まってしまった。花粉の飛散とともに。

 

菊山武士

 

書作品の制作において、墨色はとても重要なものです。磨ってすぐに書いた色としばらくおいてから書いた色は違うし、季節やおいておく環境により墨色が速く変わったりもします。

また墨と紙の相性もあるので、紙の種類によって墨色も変わってきます。

墨だけでなく、紙も古いものが良い仕事をしてくれるので、色々と集めるのに大変でもありますが、楽しみも大きいです。

 

菊山武士

 

 

 

2018年 東京都美術館主催の上野アーティストプロジェクト2018「見る、知る、感じる 現代の書」展に出品させていただいた18×18㎝の紙に400枚の「あめあめあめ‥‥」と書いたものと同時期に書いた18 枚のものを宮﨑祐史さんにパネルに仕上げていただいた作品です。

このパネル作品は、令和3年(2021年)第26回三重県表具作品展において三重県知事賞を受賞されたものであり、お気に入りとなった作品の一つです。

書は、表具の力によって、良くも悪くも大きく変化するものです。

先代の村田善右ヱ門(村田義行)先生や現 村田善右ヱ門(宮﨑祐史)さんに出会え、作品に力を与えていただけることに感謝しております。

 

菊山武士

 

「結」という字です。書体を変え・紙を変え・墨を変え・筆を変え、全ての経験がその後の作品制作に活かされると信じ、今日も思いっきり、実験・冒険したいと思っています。

 

菊山武士

 

上野公園内で、とても心地良い空間を教えていただき、行ってきました。年々展覧会を見てまわることに疲れを感じるようになってきたのですが、ここでなら、御神木と対面し瞑想することもできるでしょうし、心地良い緊張を残しながら次の展覧会へと向かうこともできるかと。

本当は、ここで昼寝をしたいのですが、バチがあたるかと。

 

菊山武士

 

2月11日都ホテル四日市にて、若き名匠たる宮﨑祐史さん(昭和52年生まれ)の受章祝賀会に隣席させていただきました。宮﨑さんは、僕の掛軸等ほとんどの作品を表装してくださっている第10代村田善右ヱ門である村田義行先生に師事し、第11代村田善右ヱ門を継承した人で、むらた表具店の現店主である。

平成31年 第30回全国技能グランプリ 表具部門金賞、内閣総理大臣賞授賞

令和4年 卓越技能者表彰「現代の名工」受章

令和5年 秋の褒章「黄綬褒章」受章等

40代にして、数々の輝かしい受賞・受章歴を持ち、将来を嘱望された表具師である。また日本の伝統文化を背負って立つ新世代の一人であろう。

 

菊山武士

 

三重県津市のむらた表具店さんに頼んで、佐久間象山の山水画のシミ抜きと、掛軸を新調していただきました。使われていた一文字の裂は、なかなか良いものとの事で、そのまま使う事となりました。

以前の状態とシミ抜きをしていただいた後を見比べてください。

 

菊山武士

 

長く馬先生に指導していただいた中で、唯一褒めていただいたのが、毎回時間通りに先生宅に訪れることであった。どうしてそんなにきっちりと来れるのかと質問されたくらいである。時間は守るが、篆刻はなかなか上達しないダメな生徒であった。

そんな時期に、下手な僕の印に先生が補刀を入れてくださった事で、遊印として使えるまでになった印を紹介いたします。

ただただ先生の凄さを思い知らされた瞬間であった。

 

菊山武士

 

 

 

長く馬先生に篆刻を教わりながらも、なかなか上達せず、いつも先生を沈黙させるばかり。課題の5顆の作品を見てもらった後、先生の前で印を刻するのであるが、遅々として進まず、先生もさぞかし苦労されたことであろう。

ある時、ずっと下を向いて必死で印を刻していた僕の耳に笛の音が聞こえた。先生がさぞかし暇となり、とうとう音楽を聴き始めたと思っていたが、何か違う。音が近く、空気の流れのようなものを感じた。

先生は、印を刻す僕の前で笛を吹き始めたのである。

不思議な光景でもあるが、中国の文人生活とはこのようなものなのかと、とても嬉しく感じた時間であった。

書を愛し、篆刻を愛し、音楽を愛し、まだ見ぬ新しいものに興味を抱き続けた偉大な文人であった。

 

菊山武士

毎週水曜日午後2時、僕は馬士達先生のご自宅へと向かう。篆刻の授業は先生のご自宅で受けることになっていた。大学院のカリキュラムでは、篆刻の授業は1年間だけであったが、在学中の3年間そして卒業後もずっと先生の下で学ばせていただいていた。

毎回授業の後は、美味しい食事とお酒を振る舞っていただいていた。前日はいつも徹夜で課題に取り組んでいたので、寝入ってしまい、そのまま先生のご自宅に泊まらせていただくことも度々であった。

僕がいつも思い出す中国の風景は、先生のご自宅の窓から見える、まだ街中に砂塵が舞っていたあの幸せな時代である。

 

菊山武士

この篆刻は、馬先生のいくつかの作品集にも載せてもらっている作品でもあるので、中国では僕自身よりもこの印の方が有名である。以前に何度も中国で「あなたが、菊山武士さんですか、馬先生の篆刻作品であなたの名前を知っていました。」と話しかけられた事があった。

馬先生にはいくつもの姓名印を刻していただいたが、この印を使う事が多い。

作品にどの印を使えば良いか?どこに押せば良いか?などいつも作品制作完了後にとても気を使うところではあるが、この印に頼っていることが多い。

馬先生に刻していただいたこの篆刻作品に負けないように、がんばっていかないといけない。

 

菊山武士

恩師である馬士達先生は、二十世紀後半〜二十一世紀の最重要篆刻家のお一人というだけではなく、書法家(中国では、「書道」の事を、「書法」と言いますので、ここでは「書法家」と表記させていただきます。)としても頗る評価の高い作家です。

 

菊山武士

 

 

 

馬士達(1943〜2012)

1943年7月江蘇省漣水県生まれ、江蘇省太倉市の人。

玄廬、老馬、驥者と号す。

1960年代独学にて書法・篆刻を学ぶ。その後70年代の初めに沙曼翁・宋季丁の両先生の薫陶を受ける好機を得て、深く学び・大きく進歩発展する事となった。

1983年3月、雑誌「書法」による第一回全国篆刻コンクールでの『一等賞』受賞により、その名が全国に知られるようになった。

その後、高等学校一年という学歴でありながら、南京師範大学の書法教授であった僕のもう一人の恩師でもある尉天池先生の大いなる努力・推薦によって破格とも言われる採用が認められ、南京師範大学美術学部の講師の職に就くことになった。

その他、全国中青年書法展『優秀作品賞』、全国書法展『全国賞』等数々の大きな賞を受賞した。

中国書法家協会会員、西泠印社社員、江蘇省書法家協会理事、南京師範大学副教授等を歴任した。

 

菊山武士

https://youtu.be/bR22kqiJ_10?si=MJsT0qqVMrVrwFQ8

健康・長寿を願ったり、年長者への祝寿のために用いられる「百寿図」は、様々な書体を用いて100個の「寿」字を、中堂形式で書いた中国の縁起物の一種である。

今、書体は変えず、書風の変化による新しい形式の「百寿図」に挑戦中。

 

菊山武士

太陽のない部屋

 

      菊山武士

 

風の強さに

流された

雨の調べが

しみついて

木樹の小枝に

ふりそそぐ

窓をへだてた

永遠の限りに

ひとつのしずくが

流れ落ち

しとやかな秋の衣装は

この上もなく

堪えがたい

甲辰年

あけましておめでとうございます

スタートが遅れ、冷や汗をかきながら、奮闘中です。

 

菊山武士

ルナの午前三時

 

         菊山武士

 

私の部屋をのぞきこむ

ルナに向かって

見せたのは

遠い彼方の

抜けた歯に

思いを込めて

投げつけた

小さなかわいた

かなしみひとつ

 

私の汚れたからだには

重星病魔の棲むという

ルナの涙に

憑いてははてぬ

かなしみ背負い

指をかむ

水の鏡に

 

        菊山武士

 

金魚の為に

町にでた

 

朝の時計のまばゆさに

その角をまがると

街の終わりを

告げる

子供の声

 

私はそそくさと

バスに乗り

鳥の歌を聞きながら

元の広場へと

戻る

一本足のベンチに

腰かけながら

風の歌にも

こえかけられず

馬のひずめに

漂ひながら

 

色ない瞳に

時の尾の

訪れまちても

声はなし

 

 

今宵の夢のはじまり

 

       菊山武士

 

静けさを取りもどした山に

鳥は舞い降る

狂った風も

眠っていた日の光りも

幻想めいた

時を刻む音も

いつしか

二千三百万年前の

泉に

たどりつく

 

月の光に導かれ

私の旅は はじまった

溶けない氷を

たずさえて

駱駝の夢の

行く末さえも

感じつつ

時間の呼吸の

弱まりに

私の夢が 蘇る

 

大学時代のゼミの先輩お二方と僕の3人でつくった同人誌「耳」。堀口大学の名訳でも有名であるジャン•コクトーの詩「耳」からとった。

その同人誌「耳」の題字と詩を担当したのが、僕だった。今見ると表紙の題字もかなり気恥ずかしいのだが、詩の方は比べようもないくらいもっと恥ずかしいのである。顔から火が出るくらいではおさまらないほどである。しかし、今この詩のような感性は持ち合わせず、心地よい懐かしささえ感じるよい経験をさせていただいたと同人誌発行をお誘いくださった先輩お二方に感謝です。

いつかここに載せた20代の頃の詩を書で表現したいと思っている。

 

菊山武士(きくやま つよし)

中国留学時代(1991〜1999年)、中国の書道新聞誌上に初めて発表させていただいた記事が『書法報』〈1996年2月28日第9期(総第607期)〉【日本磨墨機】(中国語の文法上、「墨磨機」が「磨墨機」となる。)であった。その当時は、まだ墨磨機を使ったことがなかったので、夏休みの帰国時に奈良の墨運堂さんに電話をかけ、事の次第を説明し、丁寧に詳しくいろいろとお教えいただき、拙い文章が完成したのであった。

記事を発表して30年近く経つが、未だに中国国産の墨磨機が販売されたという話を聞いていない。韓国ではその当時から韓国国産の墨磨機があったとは聞いていたのだけれど。

中国では現在、良質の固形墨がたくさん販売されているようなので、墨を自分で磨っている人が増えてはいるはずなのに。

 

菊山武士(きくやま つよし)

展覧会用大作を制作する時、大量の墨汁が必要となる。自分で磨るか市販の墨液を使うか?やはり自分は、書表現の一部でもあり•書美の重要な構成要素ともなる多彩な墨色を求め、固形墨を磨って使いたいと思っている。ただ必要となる磨墨液が大量となる為、墨磨墨の手を借りることとなる。(以前自分で磨っていた頃は、一日6〜7時間かかっていた。)

僕が中国に留学していた頃(1991〜1999年)、中国の固形墨の良品がなかなか手に入れられず、買えたものはどれだけ磨っても黒くならないやっかいな墨ばかりであった。当然その当時の書家の先生方もご自身で墨を磨ることはほとんどなく、市販の墨液を使うことが多かった。そのような環境の下では、墨色の勉強などする機会はなく、日本に戻ってから使用する水や宿墨の仕方等、試行錯誤の連続である。

今では、墨磨機無しの制作は考えられなくなった。

 

菊山武士(きくやま つよし)

藤原佐理というと書道を習っていなくても、日本史の授業などでその名を聞いたことがあるかと思います。三跡の一人小野道風が和様書道を創始し、藤原行成が和様書道を完成させたというのが日本書道史においての定説である。佐理はというと、中国風の書の傑作を残した能書家と記されるが、中国の書家(僕の知り合いのほとんどの書家)は、佐理の書こそが日本風であると見る。彼らの目には、佐理の奔放自在に書き流した変化に富む書状は中国風の狂草というより仮名書のように写っているのである。

日本人の考えと中国人の目に映る佐理の書は、まったく反対の評価であり、興味深いことでもある。この佐理という謎を少しずつ・ゆっくりと考えていきたい。

菊山武士

村田義行先生より、掛軸に折れもなくシミもさほど多くない。それほど悪い状態のものでないと言うことでした。染み抜きすることで、いまよりも全体が少し白く感じられるようになるかもしれないことをご了承してくださいとのこと。また、山水画であるので、華美にせず中国風の「明朝」という形式(元の掛軸と同じ形式)の掛軸にすること。また元の掛軸を活かすことと、なかなかのものが使われていることから、文字と軸先はいまの軸掛の物を使うことでした。染み抜きの期間はおよそ2~3か月くらいくだいとのことでした。軸装するには、今の季節が一番よい季節だそうです(菊山武士先生からのメール)

吉武弘樹さんは朝一番の飛行機で福岡から、菊山武士(きくやまつよし)さんは三重県の津市から。初対面の二人はピカソ展、岡本太郎展が開催されている上野で落ち合い夕方、日本橋の創徳の事務所に来られた。驟雨の書芸術家の菊山武士さんは雨男は分かっているが、宇都宮さん、吉武弘樹さんも雨男でしたと菊山武士。未来の計画(昭和会受賞作)で吉武弘樹を知り、驟雨で菊山武士を知り、教えを請うた。それぞれ個別にお付き合いしていたのだが、今回のピカソ展、岡本太郎展は僕自身が6回ほど行き、こんな展覧会はない、観に来ませんかと二人にお声をかけると、快諾。初めてのご対面となった。ショーロンポウを食べ、飲み、ピカソを語り、宮下誠を語りパウルクレーを語りジャコメッティーを語り、マチスを語り2次会はワインを飲み、芸術を語り、川喜田半泥子を語り、マグリットを語り、至極の時間を持った。僕は心の中の永遠の素人、小さな徳治少年においらの審美眼はあいかわらずいいねと会社に飾ってあるピカソを見入る彼らの背中をみながらつぶやいた。

 

 

『解放される立』について

『立』という字は、『大』と『一』の組み合わせでできている字で、『大』は手足を広げて立つ人を正面から見た形であり、『一』はその立つところの位置を示すものであるとされています。
その『立』一字の書作品を制作していた最終盤で、墨量が足りず(一字書の制作には大きめの筆を使っていたので、大量の墨が必要となる。)、小さめの筆に持ち替え『立』の多字数作品を書かざるを得なくなったというのがこの作品の背景にあります。
『書』は、『卒意(制作意図や目的を持たず、心のままに作り上げること。)』を大切にするとは言いますが、なかなか書けるものではありません。この作品は、『卒意の書』とまでは到底言えないのですが、意図や目的を持たない行き当たりばったりの本当に最後まで書き上げることできるかどうか(残された墨量が少なかったので)という代物であったことは間違いありません。
書は、書いた文字や語句・詩や歌などの題がそのまま書のタイトルとなることが多いのですが、この作品の制作後「手足を広げて立つ人」が「その立つところの位置」から動き出し・走り出しているように感じられたことから、この作品のタイトルを『解放される立』としました。(菊山武士)

解放される立135×105 

第25回産経国際書展

文部科学大臣賞授賞作品

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同志社大学経済学部卒業

南京師範大学大学院美術学部書道専攻修士課程修了
南京大学 外語部講師 (1996-1999)
産経国際書会 理事

受賞:
2006年 文化庁所管 公益信託 國井誠海書奨励基金 第9回誠海賞
2008年 第25回産経国際書展 文部科学大臣賞
2010年 第27回産経国際書展 産経国際書会会長賞
2011年 第6回手島右卿賞
その他多数

編著:
1997年 歴代書法名家草書集字叢帖 (天津人民美術出版社)
2001年 日本古代書法経典 (天津人民美術出版社)

リヒター確かに難解ですね。色々と評論を読んでいても、分かるような分からないようなという感じです。
確かに表現方法も多様で、同時期に多様な表現を併用していることからも、作品の意図を汲み取ることを難しくしているようにも感じます。
現代アートの様々な様式にも果敢に挑んでいることからも、とてつもない情熱を感じるのは、その生育環境によるものなのでしょうか
1980年代の後半から旧ソ連出身の作曲家が注目を浴びていたことがあったのですが、やはり鬱屈とした社会主義リアリズムからの解放を強い意思と探究力(西洋の新しい音楽語法も取り入れ)で乗り越えていったことに似たようなものを感じてしまいました。
またやはりその影響力の高さも感じます。他の現代アートの作家が表現していたものはここからきていたのかと感じる作品が多々見受けられました。
何かよくわからないのですが、その凄みは感じることができました。やはり実物を見たくなってしまいました。
昨晩リヒターの図録をずっと長く見ていたせいか、不思議な夢を見ました。不快な感じではないのですが、漠然とした不安を感じるもので、僕の体の中から小さな魚や卵のようなものが出てくるといったものでした。
まだまだこれからもリヒターのことを知りたくなってきております。(菊山武士先生からのメール)

連作雨菊山武士作

同志社大学 経済学部卒業
南京師範大学大学院美術学部書道専攻修士課程修了
南京大学 外語部講師 (1996-1999)
産経国際書会 理事

受賞:
2006年 文化庁所管 公益信託 國井誠海書奨励基金 第9回誠海賞
2008年 第25回産経国際書展 文部科学大臣賞
2010年 第27回産経国際書展 産経国際書会会長賞
2011年 第6回手島右卿賞
その他多数

編著:
1997年 歴代書法名家草書集字叢帖 (天津人民美術出版社)
2001年 日本古代書法経典 (天津人民美術出版社)

ポスターにも使われた驟雨。この作品を観て菊山武士先生に手紙を書き、教えを請うた

驟雨はベルギーのコレクターが所蔵

数年前、壷中居での細川護熙展。この蓮図を選ぶと、後ろから護熙さんがニッコリとして現れた。同席した書家・芸術家の菊山武士先生が宇都宮さんが選んだこの蓮図は練習紙に描いたもの。護熙さんがよほど気に入って作品として出されたものだと。メインに飾られた蓮図は作品、作品として好きでなかった。その後、菊山武士先生と護熙さんは何か話をされていたが、僕にとってはこの審美眼の共有がとても嬉しかった。・・・

今回お送りいただいたゲルハルトリヒター図録は読み物としても素晴らしいものでとてもワクワクいております。今日はこの図録を読むことで徹夜になりそうです・・と菊山武士(きくやまつよし)先生からラインが9時27分に。9時前に爆睡状態なので朝起きてラインをひらいた。汽水域の見直しは75万社に広げ、連日、その中からの選別はとてつもなく、孤独。そんな中、菊山武士先生との美意識の共有、空間を持っていることが、いまの心の支え。実はゲルハルトリヒターは理解しがたく、多分好きにはならないと思うのだが。

細川護熙 蓮図

完成度の高い公式ゲルハルトリヒター展図録

IMG_5667

顔真卿44歳の時の書体 多宝塔碑(752年)

IMG_5666

欧陽詢76歳の時の書体 九成宮醴泉銘(632年)

 

IMG_5665

顔真卿44歳の書体

ながくあえなくてもお互い忘れずにいましょう 天の川でお逢いしましょう

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同志社大学経済学部卒業

南京師範大学大学院美術学部書道専攻修士課程修了
南京大学 外語部講師 (1996-1999)
産経国際書会 理事

受賞:
2006年 文化庁所管 公益信託 國井誠海書奨励基金 第9回誠海賞
2008年 第25回産経国際書展 文部科学大臣賞
2010年 第27回産経国際書展 産経国際書会会長賞
2011年 第6回手島右卿賞
その他多数

編著:
1997年 歴代書法名家草書集字叢帖 (天津人民美術出版社)
2001年 日本古代書法経典 (天津人民美術出版社)

ムンク展の人混みを横にそれ階段を下り「見る、知る、感じる 現代の書展」に行くと雨の音が心地よく聞こえてきた。菊山武士さんの書「驟雨」だ。書の世界で音を聞いた。一瞬、小倉遊亀の「径」を想いだした。真夏に日傘をさした母親と娘と犬が一列に歩いている作品だ。驟雨と真夏の日傘なにも関係がないように見えるが、リズミカルな旋律が一緒だ。いっぺんに好きになった。2018年12月のこの展覧会で菊山武士(きくやま つよし)先生の存在を知り、お手紙を出し教えを請うた。

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夏になると飾りたくなる原太一の絵画。第53回の昭和会でニューヨーク賞を取った「今夜は大漁!」は長谷川徳七さんも気に入り、ニューヨークの画廊にも展示された。今週は絵画の衣替え、原太一さんの「今夜は大漁!」を飾ることに。 IMG_9212 IMG_9213

僕の好きな吉武弘樹さんの作品。吉武弘樹さんが藝大に進学、絵画を始めるきっかけになった作家に対する畏敬を表現したそうな。 (吉武弘樹さんからのメール) 畏敬の画家は、やはり絵を始めるきっかけを作ってくれたダリです。あのぬけるような空間を見たときに、とてつもない衝撃を受けました。その後絵を勉強していくうちに、フェルメールの光の使い方やボナールの色の響き合いにも畏敬の念を抱くようになりました。 フィーチャータイム弘樹吉武

サルビアは暑さにも強く、咲き終わったお花(花がら)を摘み、お手入れを少ししてあげることで次々とお花を咲かせます。 和名:ヒゴロモソウ 属性:シソ科アキギリ属 花言葉:燃ゆる思い・家族愛・貞節・知恵・エネルギー そろそろ、花柄の摘みごろ IMG_4254 中心に水があり、次に森があり、そして空気があり、絵を観賞する私たちへと広がっていくような世界を描きました(作者:吉武弘樹) IMG_5700 (湖 油彩6F:吉武弘樹氏の右下) 私が絵を始めるきっかけとなった作家にたいする畏敬を表現しました(作者:吉武弘樹) IMG_5700 (吉武弘樹氏の右上:油彩6P) 物として目に見える風景やドアを描くのでなく、そこから感じる「時」を描きました。ドアは時間を覗くためにあけた扉です(作者:吉武弘樹) IMG_5695 (どこへでも アクリル50P) アルパカ(=私)を通して見た自然を感覚的に描くだけでなく、アルパカと自然が一体となった作品を通して自分を「虚」にし、そこでとらえた世界を表現しました(作者:吉武弘樹) IMG_5705 (アルパカ Alpaca油彩 30P) 日本固有の文化や歴史の上に現在を生きる私たちがおり、さらに未来は続いていくという「永続性」を描いています。(作者:吉武弘樹) IMG_5694 (The world is my play ground ミクストメディア 120F)

期待して上野、東京都美術館に行った。F20号ぐらいの大きさで拍子抜けした。「バベルの塔」に向かって正面右の角度がないところからじっくり観賞した。

約25分観た。堪能した。ブリューゲルの作品も現存、40点ぐらいと少ない。10年ほど前に、これも小さな作品だが「雪中の狩人」を観て狩の好きな画家の眼差しから物語を感じた。この作品は岡鹿之助の「冬の発電所」と同時に観たと僕の頭ののなかで大きな記憶違いをしているのか関連つけられている。大好きな作品だ。ほぼ同じ時代、雪村がいる。

時間があれば3回目に。相当人気のある企画だ。

 

ブリューゲル

 

蒼天の画家は健在なり。画業60余年。23歳で春陽会で岡鹿之助に評価され、パリ留学時代はフランス国立高等美術学校でモーリス・ブリアンション教室でセザンヌに傾斜、その後中川一政と永年の交友をはたす。

それぞれタイプの違う3人の偉大な画家の感化のもとで、その資質を伸ばし、今日の入江観の絵画が生まれたと(美術評論家:平塚市美術館館長代理)の土方明司氏の評がいちばん的を得た表現。

 

 

 

入江観

 

 

入江観展が10年ぶりに銀座日動画廊で開催されている。日動画廊は今年90周年、入江観展も前回の日動画廊80周年から10年ぶりに開催された。初日、オープニング・パーティーは政界・経済界、入江観先生のパリ留学時代から兄貴分の野見山暁治(画家、文化勲章受賞、97歳)先生も参加され盛大だった。

 

日動画廊90

 

 

十分見応えのある展覧会。モデルを描いた作品は堪能した。日本で観られる機会は無いと思う。

上野:シャセリオー展

 

ティツィアーノとベェネツィア派展を再度観に行った。「フローラ」 枢密卿の高級娼婦「ダナエ」を神話の中に。それぞれの時代の前段を聞かない限り、深い感慨にならないのだが、前回、購入した図録を読んで再度観ると、時の権力者を引きつける絶対的な魅力がテェツィアーノにはある。今回、「教皇パウルス3世の肖像」にも釘つけになった。今年一番の収穫。ミケランジェロの嫉妬が聞こえる。

画家の王様の由縁。

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20世紀イタリアを代表する画家。静物と風景を描いた。74年の生涯を独身で、妹達、両親と生まれ故郷のボローニャで過ごした。長身で、故郷を離れたのは人生で一回だけ。F5位の本当に小さな作品「風景」(エリス・フェリ・コレクション所蔵)が大好きにな作品。入江観さんから「宇都宮さん、是非観とくべき画家」と紹介されなければ、生涯出会なかった画家。日本では去年、17年ぶり三度目の展覧会だったが次回、いつ開催されるか分からないが、来たら是非みたい画家。

洲崎海岸

吉武弘樹さんから年賀を頂いた。彼の描くアルパカでなく、干支の鶏だった。昨年はルソーの絵画を見にロンドンとNYに行かれたそうだ。

僕が彼の絵画を初めて知ったのは日動画廊。51回の昭和会の賞を取った「未来の計画」。アルパカ、都市、ヘリコプターが象を運ぶ絵画、いっぺんに大好きになった。ルソーを連想した。彼はメールで「私は作品の中でよく緑色を使うのですが、ルソーの絵の、特に暗い緑色の使い方は効果的でとても勉強になります。また、ルソー独特のデフォルメされた描き方や空間的で非現実的な世界観も興味深くみています。

フェルメールは本当に光の扱い方がきれいで、作品を構成している赤・青・黄色の原色の使い方が何度観ても感動してしまいます」

フェルメール、ルソー僕が好きな画家が共通項なのだから吉武弘樹さんの作品が好きなのも道理。深く、大きく成長して欲しい。

吉武弘樹

吉武弘樹 年賀

金山平三(かなやまへいぞう)1883年(明治16年)ー1964年(昭和39年)芸大西洋画科を首席で卒業。若くして評価をされ、「雪の金山」と謳われるなど雪景の表現には高い評価を受けた。1935年の帝展騒動の混乱を機に画壇から離れた。1947年山形の大石田に拠点を移し、世俗評価を絶ち、ひとり画業に邁進した。それも東北の雪景色も全て現場主義で郊外にキャンパスを立て、描いた。その時のダンディーな金山平三の写真が笠間日動画廊にある。 25年後、66歳で画業50周年を開き、金山平三は生きていたのかとその健在ぶりを示した画家。

日動画廊で物故作家として飾られている金山平三と出会ってから10年経つ。土日、時間があると2,3時間

眺める。生身の恋愛よりこちらのほうが真剣だ。梅原龍三郎、熊谷守一ではなく、私にとり金山平三と云う生き方に共感する。そしてそれが解る年代になった。

金山平三

 

 

「宇都宮さんはフェルメールが好きなんですか」と吉武弘樹さん。「どの作品が好きなんですか?」と食い入るように質問してきた。「手紙を書く女」「窓辺で手紙を読む女」 2008年日本で特別公開された「手紙を書く婦人と召使」それに「デルフトの眺望」

吉武弘樹さんは芸大時代、上野だけでなく、ワシントンDCにも行き観たとのこと。それだけに光の天才画家、フェルメールは彼の画業に重要な位置を占めていると感じた。

吉武弘樹さんの「未来の計画」 この一枚の絵画に彼の語らんとする未来が物語れているが、この未来の計画は観る人がそれぞれ想い抱く明るい未来である。そして、溢れる才能の画家としての未来の計画を込めている作品である。

 吉武弘樹

吉武弘樹さんは東京芸大・大学院卒 卒業制作が首席に与えられる平山郁夫賞・台東区賞を受賞された。今年春、日動画廊が行う51回の昭和会を受賞。洋画壇の芥川賞みたいなものだ。第1回は奥谷博以下入江観、山本貞さんなどその後活躍している洋画壇の重鎮を輩出している。

「禁断の園のアダムとイブが・・・」と吉武弘樹さんが「未来の計画」の題材の話を物静かにされた。そのアダムとイブがいる小山の下には龍の目が黒く描かれている」

川端康成は芥川賞の選考委員をしていた僕が高校生のときの名言を今も覚えている。「作家は処女作にむかって成熟する」

其のひそみに倣えば吉武弘樹さんの絵画はその物語性である。50号の作品。偶然、交詢社に用があり、その帰り、日動画廊に寄った。購入するのに1分もかからなかった。名作で創徳のオフィスのエントランスに飾ってある。

 

吉武弘樹さん

春陽会の入江観さんと六本木の東京国際会館で晩秋の夜、会食をした。先月、10日間ほどパリに野見山暁治さん(95歳、文化勲章受賞)と81歳の入江観さんの2人の留学の思い出の地、パリに行かれた話しを楽しく聞かせて頂いた。もう、これが最後のパリと野見山暁治さん、十数年先輩の野見山暁治さんとパリでの初対面の話し、美術館巡りでピカソとジャコメッティの展覧会でジャコメッティが一歩も引いていないなど熱く語る入江観。少年のようなきらきらした目に変わっていた。

閑静な庭園の向こうには赤い東京タワー。綺麗なガラス窓に東京タワーと二重写しの自分の姿。ふと、ここにいる自分は137億2千万年に起こったビックバンで無から生まれ、そして2兆年後にはあとかたもなく姿を消す存在のなかの塵。およそ4千億の銀河が存在して、自分のいる銀河はその中のひとつと考えると、過去も現在も未来にも私は何人も生まれては、消えてゆく。

ナプキンをテーブルに置き、後にした。これは壺中の出来事。

 

日光中禅寺湖