長く馬先生に篆刻を教わりながらも、なかなか上達せず、いつも先生を沈黙させるばかり。課題の5顆の作品を見てもらった後、先生の前で印を刻するのであるが、遅々として進まず、先生もさぞかし苦労されたことであろう。

ある時、ずっと下を向いて必死で印を刻していた僕の耳に笛の音が聞こえた。先生がさぞかし暇となり、とうとう音楽を聴き始めたと思っていたが、何か違う。音が近く、空気の流れのようなものを感じた。

先生は、印を刻す僕の前で笛を吹き始めたのである。

不思議な光景でもあるが、中国の文人生活とはこのようなものなのかと、とても嬉しく感じた時間であった。

書を愛し、篆刻を愛し、音楽を愛し、まだ見ぬ新しいものに興味を抱き続けた偉大な文人であった。

 

菊山武士

毎週水曜日午後2時、僕は馬士達先生のご自宅へと向かう。篆刻の授業は先生のご自宅で受けることになっていた。大学院のカリキュラムでは、篆刻の授業は1年間だけであったが、在学中の3年間そして卒業後もずっと先生の下で学ばせていただいていた。

毎回授業の後は、美味しい食事とお酒を振る舞っていただいていた。前日はいつも徹夜で課題に取り組んでいたので、寝入ってしまい、そのまま先生のご自宅に泊まらせていただくことも度々であった。

僕がいつも思い出す中国の風景は、先生のご自宅の窓から見える、まだ街中に砂塵が舞っていたあの幸せな時代である。

 

菊山武士

この篆刻は、馬先生のいくつかの作品集にも載せてもらっている作品でもあるので、中国では僕自身よりもこの印の方が有名である。以前に何度も中国で「あなたが、菊山武士さんですか、馬先生の篆刻作品であなたの名前を知っていました。」と話しかけられた事があった。

馬先生にはいくつもの姓名印を刻していただいたが、この印を使う事が多い。

作品にどの印を使えば良いか?どこに押せば良いか?などいつも作品制作完了後にとても気を使うところではあるが、この印に頼っていることが多い。

馬先生に刻していただいたこの篆刻作品に負けないように、がんばっていかないといけない。

 

菊山武士

恩師である馬士達先生は、二十世紀後半〜二十一世紀の最重要篆刻家のお一人というだけではなく、書法家(中国では、「書道」の事を、「書法」と言いますので、ここでは「書法家」と表記させていただきます。)としても頗る評価の高い作家です。

 

菊山武士

 

 

 

馬士達(1943〜2012)

1943年7月江蘇省漣水県生まれ、江蘇省太倉市の人。

玄廬、老馬、驥者と号す。

1960年代独学にて書法・篆刻を学ぶ。その後70年代の初めに沙曼翁・宋季丁の両先生の薫陶を受ける好機を得て、深く学び・大きく進歩発展する事となった。

1983年3月、雑誌「書法」による第一回全国篆刻コンクールでの『一等賞』受賞により、その名が全国に知られるようになった。

その後、高等学校一年という学歴でありながら、南京師範大学の書法教授であった僕のもう一人の恩師でもある尉天池先生の大いなる努力・推薦によって破格とも言われる採用が認められ、南京師範大学美術学部の講師の職に就くことになった。

その他、全国中青年書法展『優秀作品賞』、全国書法展『全国賞』等数々の大きな賞を受賞した。

中国書法家協会会員、西泠印社社員、江蘇省書法家協会理事、南京師範大学副教授等を歴任した。

 

菊山武士

https://youtu.be/bR22kqiJ_10?si=MJsT0qqVMrVrwFQ8

健康・長寿を願ったり、年長者への祝寿のために用いられる「百寿図」は、様々な書体を用いて100個の「寿」字を、中堂形式で書いた中国の縁起物の一種である。

今、書体は変えず、書風の変化による新しい形式の「百寿図」に挑戦中。

 

菊山武士

太陽のない部屋

 

      菊山武士

 

風の強さに

流された

雨の調べが

しみついて

木樹の小枝に

ふりそそぐ

窓をへだてた

永遠の限りに

ひとつのしずくが

流れ落ち

しとやかな秋の衣装は

この上もなく

堪えがたい

甲辰年

あけましておめでとうございます